第4章 犬でも恩返しを知っている!
間髪入れず、反応する暇もないまま、乾いた音が連続した。
「パァン! パァン! パァン! パァン!」
速い。鋭い。小気味いいほどに容赦がない。
有村雄也は一瞬で目を回し、口の端から血が滲んだ。両頬には真っ赤な手形がくっきり焼きつき、痛々しいほど目立っている。
「工藤達央! てめぇ、この役立たずが俺を殴りやがったな! 俺は有村家の御曹司だぞ!」
「信じるか? 姉貴に言う! 母さんに言う! お前なんか――殺してもらう!」
工藤達央は有村雄也の身体を乱暴に放り投げ、地面に叩きつけた。さらに胸元へ一歩、靴底を乗せる。上から見下ろし、氷みたいな声を落とす。
「脅すのか。俺が怖がると思ったか?」
周囲のチンピラたちは呆然とした。
いつも逆らわず、言われるがままだった工藤達央が――今日に限って、やけに“凶い”。
手も縛れない役立たずだと聞いていたはずなのに。
我に返った男たちが、慌てて武器を掴み、工藤達央へ突っ込んでくる。
「有村さんに手ぇ出すとか、調子に乗んな!」
工藤達央は振り向きざま、ひと睨みしただけだった。吐き捨てるように、短く。
「失せろ」
まるで目の前に猛獣が立ちはだかったかのような殺気が、男たちを一気に呑み込む。
足が止まる。喉が鳴る。呼吸が詰まる。
先頭のチンピラが唾を飲み込み、震える声で強がった。
「ガキ……死にてぇのか!」
「この辺は巻さんのシマだ! 有村さんは巻さんとツレなんだぞ! 手ぇ出したら――」
「巻き毛?」
中山紗奈が眉を吊り上げ、冷たく言い放つ。
「城北の松田大河の手下でしょ。よく言えたものね」
「私、中山紗奈の車列を止めておいて、無事で済むと思う?」
「松田大河に伝えなさい。中山家に説明がなければ、江北から消す」
「……中山紗奈?」
チンピラたちは顔を上げ、改めて女と車列を見た。
高級車がずらり。素人目にも分かる金の匂い。
そして先頭のナンバーは『888888』――中山家の象徴。
理解した瞬間、男たちの顔色がさっと青ざめ、膝が笑い出す。
中山紗奈。中山家の当主。
この若さでその座に就いた女が、甘いはずがない。松田大河ですら、正面からはぶつかれない相手だ。
「な、中山さん……! 気づかず……失礼しました……!」
チンピラが慌てて頭を下げる。
そのとき。
血まみれの有村雄也が、ふらつきながら立ち上がった。中山紗奈を見て、鼻で笑う。
「お前が中山紗奈? 中山家の長女?」
「そんな大物が、工藤達央みたいな役立たずと一緒にいて、ヒモにしてるって? 誰が信じるんだよ」
「なあ、姉ちゃん。こいつは工藤達央っていう、姉貴に捨てられた役立たずだ」
「騙されんなよ。そんなヒモより、俺が可愛がってやる」
チンピラたちは同時に青ざめた。今すぐ有村雄也の口を塞ぎたい。
だが中山紗奈は、内心で引っかかっていた。
森田会長が頭を下げるほどの男が、ただの凡人であるはずがない。
それなのに有村家で屈辱を受けていた? それに、有村家の成り上がりは確かに不自然なほど順調だった。
――まさか、全部この男が。
「工藤さん、後は彼らに任せましょう。先に行きます」
中山紗奈は思考を切り上げ、工藤達央へ告げると、背後のボディーガードへ目配せした。
六名のボディーガードが武器を抜き、チンピラたちへ無言で歩み寄る。
残り二名が車のドアを開け、工藤達央と中山紗奈を乗せた車列は再び走り出した。
背後に残ったのは、地獄みたいな悲鳴だけ。
十分ほどして、通報で人が集まり始めた頃、黒服のボディーガードたちは散るように姿を消した。
有村雄也は地面に転がったまま、拳を握りしめる。
胸の奥が裂けそうな屈辱。
有村家が成り上がってから、こんな目に遭ったことはない。
それ以上に理解できない。
なぜ工藤達央みたいな役立たずが、離婚した直後に美女に助けられる?
なぜだ――。
有村雄也はスマホを掴み、有村母へ電話をかけた。繋がるなり泣き叫ぶ。
「母さん! 工藤達央に殴られた!」
「殺されるところだった!」
その頃、有村母と有村菜津美は、付き添いの救急車に同乗していた。
息子の訴えを聞いた有村母は怒りで震え、声を荒げる。
「ほら見なさい!」
「工藤達央は恩知らずな男よ! 犬だって餌をやれば懐くのに!」
「私は必ず代償を払わせる!」
「もういい、母さん……!」
有村菜津美は深く息を吐き、救急車の窓の外を見つめた。表情は複雑だった。
家では、玉の件で逆上した。
なら今度は? 弟は何もしていないはずなのに。
なぜ殴る?
なぜこんなに短気で、乱暴に――。
もしかして、自分が見誤っていたのかもしれない。
一方、工藤達央と中山紗奈は江北病院へ到着し、特別VIP病室へ急いだ。
病室には最先端の医療機器が並び、医師たちが険しい顔で議論している。
ベッドには、顔色が青い若い女性が横たわっていた。弱々しいが、眉目には中山紗奈と似た美しさがある。
中山家の次女、中山美由。
「お姉ちゃん……苦しい……!」
中山美由は泣きじゃくった。
「こいつら、病名も分からないくせに血ばっかり抜いて……! 全然ダメ……!」
医師たちは顔を見合わせ、苦い表情で言う。
「中山社長、美由様の症状はあまりにも特殊で……」
「詳細な血液検査も、特殊症例との照合も行いましたが、一致するものがありません。できる限りのことはしましたが……」
中山紗奈は妹の肩にそっと手を置き、宥めるように撫でた。それから工藤達央へ振り返る。
「工藤さん、医師たちでは手が出ません」
「妹の病……何か分かりますか?」
その瞬間、医師たちの空気が変わった。
目の前の青年は二十代そこそこ。医者だとしても研修医程度にしか見えない。
――自分たちを侮辱しているのか。
――それとも、藁にもすがる思いで、怪しい男を連れてきたのか。
不快感が、露骨に顔へ浮かぶ。
「中山社長、こんな若造に診せるんですか。詐欺師でないだけマシでしょう」
「我々は病院のトップです。どうか冷静に。こんな者は追い出すべきです」
工藤達央は医師たちを一瞥し、冷たく言い捨てた。
「で、長々と議論して結果は出たのか?」
「原因すら分からない連中が、何の役に立つ」
「貴様……!」
医師たちが顔を赤くし、吐き捨てる。
「小僧め……無知のくせに……!」
